オバケは怖いか?

2010年11月08日
オバケは怖いか?

  3. Posted by 楠乃小玉 2010年11月09日 00:34
霊的なものに関しては、
できればかかわらない方が良いようです。
私も霊的なものから、そういう話は
何度か聞かされました。
私も毎日神社に通って、祝詞を唱え続けることによって、平静に生活できるようになりましたが、これを怠ると、また調子が悪くなって動けなくなってしまうでしょう。
霊が見えるというのは、特殊能力ではありません。
精神的防衛力が低下して、外的思念を
跳ね返せないことから起こっていることですから、むしろ精神が脆弱化していると考えた方がいいでしょう。
そんなものが見えても何の自慢にもなりません。
むしろ、見えないことが健全で、
自慢できることなんですよ。
だから、そういうものが見えても、
聞こえても、日常のささいな出来事と
思って聞き流していればいいのです。
聞こうとすうるからおかしくなるのです。
基本、無視が一番ですけどね。
自分から求めないことは基本中の基本です。
チャネリングもやってはいけません。
私は別に自分から望んだわけでもなく、チャネリングなどもまったくしてないですからね。
  4. Posted by あおいちゃん 2010年11月09日 20:14
こんばんは^^
ほんと不思議な世界ですよね。
昔から霊より生きてる人間の方が怖いと思ってたけど、それは見えないからかもしれませんね。
友人で勝手に見えちゃうのは慣れても気持ちいいものではなく、人より魑魅魍魎がアストラルで人に見えるものの方が怖いから神社の鈴は手放せないって言ってました。
やはり神社は守りがあるのですね^^
  5. Posted by 楠乃小玉 2010年11月09日 23:17
あおいちゃんさん
通常相手にしなければ
別段問題のあるものではないと思います。
普通に生活し、普通に生きていれば
霊的なものにかかわることはないですし、そういうものが見えても、聞こえても、普通の日常として
受け流していけばいいと思います。
ただ、霊現象がある廃屋にわざと
行って霊をおちょくったりするのは
よくありません。
人間と同じで節度をもって接すれば
普通の霊はなにもしないでしょう。
ただ、おかしいのもいますので、
神社のお守りを持っていると、
非常に強い守りになると思います。
霊的存在は、人によって対応できる
ものではなく、神のお力によって
守っていただくものだからです。
ですから、霊能者などを頼ることなく、神社にお参りに行って、
手を合わせることが、一番の
予防策になるでしょう。





2011年02月02日
真福寺

愛知県岡崎市の真福寺というところに行ってきました。
物部氏の時代から続く古代からの寺です。
ここに行って本堂で手を合わせると、私に付いているものについて
言及するメッセージを感じました。
あくまでも、私の頭の中に浮かんできたイメージですが、
面白い内容であったので、忘れないうちに記録しておきます。
私には三体の精霊がついていて、
一つは花慶と名乗っています。

  16. Posted by ぐり~ん 2011年02月04日 00:36
こんばんわ。
やはり古代のお話になると難解ではありますがワクワクしてきますね。
特に今回は神功皇后や応神天皇のお話も出てきましたので、
以前から楠乃小玉さんにお訊ねしたいと思っていたことがあったのですが、よろしいでしょうか?

以前、古代編の時に、
神功皇后(神功大王)は久米氏の一族であり、その神功皇后の子である誉田別命(のちの応神天皇)も久米氏系とみなされ、
仲哀天皇の戦死後に、誉田別が皇位を嗣ぐことを仲哀天皇系である大和の勢力が快く思っわなかった、
それで神功皇后軍と、仲哀系の香坂、忍熊両皇子軍との間で戦争が開始された、
とのエントリーがあったと思うのですが、
誉田別命も父は大和系の仲哀天皇のはずですから、
何故、誉田別は大和系とはみなされず、別系統(久米氏系)と認識されなければならなかったのかとその時は不思議に思いました。
しかし考えてみれば、日本の古代社会は父系制ではなく、母系制あるいは双系制社会であったと言われているんですよね(父系制に変わっていったのは12世紀の院政期頃からだそうです)。
従って大和側からすると、母系一族が大和系ではない誉田別命が天皇位に就くなどということは決して許されないことだったのだろうと今では推測しているのですが、この推測は当たっているでしょうか?
  19. Posted by 楠乃小玉 2011年02月04日 14:18
ぐり~んさん
よくお調べになっておられますね。
ご推察の通り、日本社会では
古代から長らく母系の影響を
強く受けています。
源平合戦の頃には、大陸からの
影響で父系の影響がかなり
強くなっていますが、それでも、
源義朝の長男、悪源太義平は
長男であるにも関わらず、
母親の血統のため跡継ぎには
なれませんでした。
古代にさかのぼればさかのぼるほど
日本では母系の影響が強くなります。
よって、古代においては、
母系の血統というのは非常に重要視されていたのです。
  34. Posted by 楠乃小玉 2011年02月07日 19:23
U2さん
さすがによく調べておられて
感心します。
とても勉強になりました。
保食神が月読命をもてなすために
食べものや酒を口から吐き出して
もてなしたのを、月読命が
「汚い」と言って激怒し、
切り殺したエピソードが
古事記などにも記載されていますが、
これはまさに、口噛みのお酒を
隠喩的に表現したものだと思います。
加に関しては加茂ひいては鴨氏に
系譜がつながります。
鴨氏は大山祇命を信奉し、
瀬戸内の海上輸送をなりわいとした
一族であり、瀬戸内海の大三島にある
大山祇神社を建立した一族でもあります。
この大山祇神社が日本総鎮守と
格付けされ、古来より多くの武人が
参拝し、刀剣甲冑を奉納しているのは
興味深い事実だと思います。
大和においては大神神社が大きな
管理権をもっていたと思われます。
座に関してはやはり物部氏の系譜を
引く、藤原氏が大きくかかわっていたと思います。
こうした財源的裏打ちがあったからこそ、一時は蘇我氏との闘争に敗れた
ものの、物部氏は藤原氏と姿を
変えて生き残ったのだと思います。
この藤原氏のマーケットを物流面で
支えたのが鴨氏、技術と財政面で
支えたのが秦氏だったのではないかと
考えています。
名前から系譜を紐解くと、加は加茂氏、藤は藤原氏につながります。
これを考えると、神道の座と深い
かかわりを持つ商業技能集団である
神人加藤氏などにも色々と興味が
わいてきます。加藤氏とはもともと伊勢の神官であり、のちに熱田の財政の中心にいた一族ですが、これは
古代ではなく室町から戦国時代に
かけての話ですので、かなり
後の話になってきます。
色々話が脱線しましたが、
本当に古代氏族のお話は
興味がつきないです。
  39. Posted by U2 2011年02月08日 00:55
楠乃小玉様ありがとうございます。与えられたヒントを調べているだけで、基本教わってばかりです。
菟の勢力は消滅したわけではなく、秦、鴨、藤原、更にはその中からぐりーんさんの指摘された河野氏等に分かれつつ、日本の古代はもちろん中世迄大きな影響を及ぼしたのですね。またそのような流れの中から信長の改革に繋がった、と言う所に繋がったことに感動を覚えました。また弥三郎の加藤家にも繋がる流れがあると言うのも浪漫ですね。
俄宇治狂いは未だ収まらず、三角縁神獣鏡の分布図に、縁の土地、同盟と思われる地域、敵国等を懲りずに色分けしてますと、その戦略の確かさに驚かされます。同盟として奴の隣の伊都、苅田を押さえ、熊襲に対しては宇土で押さえ、甑島含む隼人に対しては宇治群島、五島列島そばには宇久島。出雲吉備間の物流として、倉吉-津山-岡山を押さえ、瀬戸内海は山陽、四国をの2ルートを用意。東は尾張、浜名湖、駿河、相模(秦野?)を押さえ、利根川流域を同盟し毛野をけん制(続く)
参考
http://web.me.com/abukuma/Study/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC/2009/9/27_%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1%E3%81%AE%E5%88%9D%E6%9C%9F%E5%88%86%E5%B8%83%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%80%85%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%89.html
  46. Posted by ぐり~ん 2011年02月08日 17:03
楠さん
元三島神社のこと有り難うございました。
元寇で活躍された河野通有公の創建になるのですね。
私は以前は、上野や浅草周辺は毎日のように自転車で走っていたのですが鶯谷というのは盲点でした。寛永寺の北側は急激な坂道であることに加え、当時の自宅へのルートではないので不案内な地であったのです。
しかし、移転後の寿(台東区)なら多少は知った土地です。
あそこをもう少し南へいくと天児屋根命を祀る鳥越神社があるのですが、そこが私のお気に入りの神社だったものですから。
機会がありましたら是非参詣させて頂きたいと思います。
とにかくあの界隈は膨大な数の神社仏閣が凝縮されていますので、私は数年間かかっても把握しきれていません(笑)。
ついでに言うと今エントリーの膨大な情報量にも(なんとか整理したいのですがちょっとアタマが何が何だかのシャッフル状態に陥っております)!

それと函館(箱館、箱ノ館とも)を拓いた武将は河野(越智)政通という方だそうです。この河野氏は後には松前氏の一族となっています。
松前氏は若狭の出身といいますから、河野氏や津軽安東氏とともに、そこにはやはり海上勢力同士の海のネットワークが伺えるように思います(北前船の前身?)。
  47. Posted by ぐり~ん 続きです 2011年02月08日 17:44
しかし、出雲勢力とは一体何なのでしょう!
古代の出雲勢力のテリトリーが現在の島根県域だけではなかったとはよく言われることですが。

スサノオ、大国主、建御名方と系譜が続き、
しかし、そのスサノオ命は確か以前、久米氏系と仰られていたような・・
とするとタケミカヅチ命とも同族になるわけですよね。
そのタケミカヅチ命を祀る一族は多氏(久米氏系)から中臣氏に変わっているようですが、その中臣・藤原氏は実はリニューアルした物部氏の姿(これも以前のエントリーに有りましたよね)。
鹿島神宮の対岸にはフツヌシ命を祀る香取神宮があります。
フツヌシといえば、これはもう物部氏でしょう!
そして、この鹿島、香取両神宮は実は二つで一体であるともよく言われます。
ということは物部氏=藤原氏と久米氏(神功皇后、応神天皇、和邇氏、息長氏etc)も同族関係ということになるのでしょうか?
やはりもう何が何だかのシャッフル状態です。
  48. Posted by ぐり~ん さらに続きです 2011年02月08日 18:40
それと、実は応神天皇の皇位継承を巡る戦いの問題と並んで気になっていたことがあります。
以前、「隼人が言いました」の記事で、隼人と熊襲との交易をめぐる確執のお話がありましたね。気になっているのはそのお話なのです。

隼人が貸し与えた鉄製の釣り針を熊襲が紛失したといい、代わりに熊襲が青銅製の剣を鋳潰した釣り針を持ってくるというお話。
これは、日本神話での「海幸彦、山幸彦」のお話にそっくりですよね。
ということは素直に読めば、海幸彦(ホデリ命)が隼人で、山幸彦(ホオリ命)が熊襲であるということになります(そしてこの「兄弟」の母方の祖父が大山祇神です)。
そしてさらに神話に沿って素直に読むと、熊襲(ホオリ=山幸彦)の孫がカムヤマトイワレビコ(神武天皇)であるということになってしまい、天皇家の父方の祖先は熊襲になってしまうのです。
しかし、神武天皇は隼人であり、種子島方面からやってきたとのエントリーもありました。
これは何と解釈したら良いのでしょうか?(訊ねてばかりで申し訳ありません)
  49. Posted by 楠乃小玉 2011年02月08日 21:46
ぐり~んさん
いえいえ、熊襲に関しては九州の地場
勢力だと思います。
隼人は大和朝廷側だと思います。
問題は、熊襲と戦った仲哀天皇が
戦いのさなか戦死し、神功皇后は
圧倒的に兵力が欠乏し、
熊襲とも対峙して動きが取れない
状況にありました。
そんな中、応神天皇を立て、
大和からは仲哀天皇の皇子たちが
攻め寄せてくる状況で、
神功皇后は、どうやって
大軍を調達したのか?なぜ
皇子たちと戦っている神功皇后を
熊襲が襲撃しないのか?
また、隼人はそののち、
大和朝廷に反抗するようになったのか?
という部分です。熊襲は神功皇后と
和解して政権の中枢に入ったのではないかという推測が成り立ちます。
そうすれば、過去の熊襲の所業は
正当なものとして扱わねばなりません。
私はそういう解釈をしています。
  50. Posted by U2 2011年02月08日 22:31
最近のお騒がせ&乱入失礼致します。
2006年10月14日「隼人が言いました」拝見しました。仲哀天皇の事故ですね・・・。宇は隼人の一族だったのか、とびっくりしてます。実は飽きずに宇を探していると、高千穂に宇土内谷という土地があり、南さつまと島原に宇土山があり、諫早には宇都と船越(地峡で船を越したと言われる場所)が有り、諫早南岸には時代は違いますが宇木城まであるのです。
http://www.fwd-net.com/bunka/uki.html
それらを使うと、宇治群島-南さつま-宇土-島原宇土山-諫早(船越)-平戸-宇久-伊万里の海上ルートが可能になります。またこの付近には唐津に宇土の谷と言う地名があるようですし、佐世保-宇土越え-有田-伊万里の迂回ルートもあります。
参考:船越と山車も関係も興味深いです。
http://www.motomurashika.com/kurume-chimeiken/f-5funakoshi.htm
と、ニニギが頭に浮かび調べると、ニニギは高千穂から吾田(南さつま)にでたと・・・。出来すぎで気持ち悪いですが。脱線致しました。ごめんなさい続きます。
  51. Posted by U2 2011年02月08日 23:03
隼人が反政府になるのは確かに衷哀後・・・ですね・・・。
私の妄想では宇の一族はその後も天皇側に立ち、応神の王子を得て、全盛期と、分解・衰亡を迎えます。
しかし、物流ルート上は熊襲への警戒を宇の一族は怠っていない、そんな気がしています。また、宇治群島などは、隼人対立後、甑島に寄れなくなった為の寄港地なのかなと思いました。ちなみに宇治群島は黒潮と対馬海流との分岐点のようです。
ところで最新エントリーで物部について書いておいでですが、先に神獣鏡の分布に触れたのですが、物部の分布と神獣鏡の東日本の分布、及び菟(宇)の縁を除くと結構重なります。同盟だったのかなと。
http://mononobe.nobody.jp/map/east.htm
大君の右腕が物部、左腕が宇と勝手に考えています。一方で、もう一つの海の一族宗像と宇は競合関係なのか、宗教的問題なのか神獣鏡空白地域なのですが、その宗像は出雲や吉備との縁が深いと言われていて、この一族も不思議な一族ですね。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/munakata.htm
結局、脱線で終わってしまいました。申し訳ないです・・・。
  52. Posted by 楠乃小玉 2011年02月09日 10:46
U2さん
宇と隼人がきわめて密接な
関係にあったという推測は成り立ちますね。
隼人はもともと僻地の一部族と
みなされがちですが、
本来は、天皇家の臣下の中核をなす
勢力であったとみなすのが
妥当だと思っています。
結局、政治的騒乱によって
敵対勢力となってしまい、
日本国内における権益も
失い、反乱にむかわざるをえなかった
という状況があったと思います。
物部の分布と神獣鏡に関しても
興味深いですね。
隼人や宇や物部といった勢力は
元々天皇家を支えていた旧勢力
として関連が深かったことは
考えられますね。
それと出雲、吉備など
新規に朝廷に取り込まれた勢力との
構造がどうあったのかは興味深いです。
  53. Posted by U2 2011年02月09日 11:00
楠乃小玉様、お騒がせし恐縮です。仮説がようやく形を為してきました。
先に、宇土は隼人?と申上げましたが、宇土は海人だと考え直しました。海人-うと-宇土で単純に良いかと。これで宇絡みの土地が、海沿や水の湧く島中心な事に説明がつきます。
尚隠岐の海士町にも宇土があります。因幡の白兎に繋がります。海人ネットワークが宇であり、陸に上がった一族は菟となり、物流統合で和邇と同化し、宇土を通じて隼人とも当然血縁もあるという事かなと。
九州北部の神獣鏡空白域はやはり宗像(出雲系)です。先のコメントで、船越に触れましたが、佐世保-伊万里の「宇土越え」により北九州には佐世保-伊万里-伊都(同盟?)-宇美(内陸です)-苅田(同盟?)の陸上ルートの併存が気になってます。
後、佐伯部(大伴一族)がもう一つの空白のピースです。同盟の一つであり、宇の失脚後に住吉王のクーデター失敗を経て大伴金村が浮上しやがて失脚します。神別の失脚が相次ぎ残る大物は物部、です。海の一族の弱体に伴い、九州勢力がより反政府化し、外征能力を失っていく流れです。
ちなみに、種子島には塰泊という所があるそうです。宇留命と種子島にルーツも繋がりました。
ここからは完全な想像を書きます。隼人は神功応神時は宇のネットワークを使い大規模派兵をしたという可能性はありませんか?(熊襲の挟み撃ち→東征)その後宇の失脚に伴い中央のパイプを絶たれた隼人は徐々に反政府に変化していったと、宇びいきの完全な想像です。
  54. Posted by U2 2011年02月09日 12:08
楠乃小玉様御返事有難うございます。
ちょっとあわてての書込みです。
2006年の貴ブログのエントリー群を読み直していて、
http://blog.livedoor.jp/ninzya5/archives/2006-10.html
自分の中のミッシングリンクが繋がりだして、怖いです。
そもそも歴史家ではないので、自己満足で追求しています。後付で仮説を立てていると思われても全然構いませんが、無意識的にはそういう事はあっても、やはり不思議です。仮説があやまている箇所も沢山ありますが、そもそも仮説は筋道立てる為の仮説ですので、幾つもの質問や疑問を埋めてくださってます。
その中で宇と宇治天皇に関わる項目が色々とつながります。以前の質問の答えはこちらにありました。
「ねこの戦い」も拝見しました。神功皇后は熊襲とは和睦していたのですね。(仮説は一部間違いと)、ただ宇のネットワークは隼人の派兵には絡んでいたという事でいいと思っています。
応神(久米)、仁徳朝の相克は忍熊王含めやはり色々とあったのですね。
そして、最近何かに呼ばれて近づくと何故か控えめなお稲荷さんがある事(複数回)も得心が行きました。前に相談した神社にもお稲荷様が鳥居近くにありお参りしましたし。
加茂と秦も菟と関係がありそうですね。一つ気になったのは、三連星=久米-宗像-出雲系?ですが、そこは少しずつ考えます。久米島が竜宮城みたいなのも気になりますが
一つ言える事は日本の民として日本の記紀や神話にもっと自信を持っていい事であると思います。相変わらずの乱文申し訳ありません。
  55. Posted by ぐり~ん 2011年02月09日 20:05
楠乃小玉さん
詳しいご説明をどうもありがとうございます。
天皇家が熊襲の子孫にとなってしまうというのは私の早とちりであったようです。
ただ熊襲のそれまでの事跡が、天皇家側から正当なものとして扱われるようになったということは、熊襲の事跡が記紀に山幸彦神話として組み入れられることになったということでしょうかね。
それと、熊襲はかつてそう名乗る前は、隼人等から「くわ」と呼ばれていたということですから、
魏志倭人伝に云う「狗奴国」とは、もしかして「『くわ』のくに」なのかもしれないなと考えています(そうなると女王・卑弥呼とはやはり神功皇后!?)
  56. Posted by 楠乃小玉 2011年02月09日 20:51
U2さん
天皇勢力と隼人が熊襲を
挟撃しようとしたという仮説を
私もとっています。
あくまでも仮説の話になりますが。
そして神功皇后が熊襲と和解して
しまったために、隼人が孤立することになると。
そして、この熊襲から
神功皇后の軍事顧問についたのが
武内宿禰であり、その子孫が蘇我氏で
あると。
つまり、仲哀天皇の御崩御から
連綿と続く熊襲と隼人の対立が
蘇我、物部の対立の根本にあるのでは
という仮説です。
  57. Posted by 楠乃小玉 2011年02月09日 20:54
ぐり~んさん
ここらへんにくると、仮説による
理論構築ですからねえ。
正確な断定はできませんが。
卑弥呼と 神功皇后の
関連性については、
同一である可能性もあると思います。
ただ、確定的な確証はありませんが。
  58. Posted by U2 2011年02月10日 13:02
楠乃小玉様ありがとうございます。昨日は落着を失い恐縮です。資源戦争と、情報・外交戦略の話をさせて下さい。
 資源分布では阿蘇は産鉄地です!神功皇后の折に熊襲は羅(温羅?新羅?)の技術を借りて、鉄生産を可能にした。という可能性があると思います。(ある意味産業革命?)
失礼ながら小玉様の説に乗っかると、その事により阿蘇は蛮族から一気に同盟相手になり、資源の無い隼人は蚊帳の外に置かれた、という想像です。物部とも当然対立が起きる事でしょう。
同時に神宮皇后は仲哀天皇とは別の情報網(久米以外)を有していた可能性があります。神功皇后が三ツ星信仰(宗像)を広めますが、久米は宗像=出雲系ではありません。宗像の情報網への対価と考えると納得がいきます。尚、久米は久留米でしょうか??>貴ブログによれば、後に宗像が仁徳天皇によって追放・・・時に久米を頼って北九州に、という表現が気になっています。
ここでおさらいをさせて下さい。
>熊王菊池命は(という事は熊襲は菊地氏の祖ですね)・・・。大和本国と我々が戦に及んだ場合は、援軍を差し向けるよう、盟約を結び、その証として、軍監の職として、武内宿禰を派遣したるよう盟約をとった。(な、なるほど!)
盟約通り、熊は夜陰に乗じて羅刹の将軍の首を打ち、両軍でせめて、羅刹の軍を壊滅した。その勢いに乗じて、鬼が島に渡り、神鷹を先鋒として、散々に羅刹を打ち負かし、降伏に追い込んだ。(近づけるのは同盟を組んでいた熊ですね)
そして、大和自体を打ち破り、基本皇統を変更せずに新体制を築き上げる。神功に値する功績といってよいかもしれませんね。
(続く)
  59. Posted by U2 2011年02月10日 13:04
神功皇后は独自に熊襲を懐柔していたのかもしれません。そして製鉄情報を漏らした羅(吉備?)は実際裏切っており、当然粛清というより殲滅された疑いが出てきます。
ちなみに、温羅伝説のある総社市には血吸川という怖い名前の川があります。また鬼の城は見事な朝鮮式山城ですが、建築年代は白村江の直後とも言われていて、
尚、復元物は鬼が無理やり書かれていて何だか変です。もしトロイのように鬼の城の下に、温羅期の城が見つかれば世紀の発見となりうるでしょう。
ともかくも古代吉備の総社市付近は三方が山で一方が穴海、非常に堅固な構えです。北には高梁川が出雲方面への通り道であり、高梁川上流がいわゆる製鉄地として成立しています。尚東はあの備中高松城=泥沼です。まさに天嶮の良港に他なりません。
さて、貴ブログにおける描写で温羅討伐が包囲殲滅戦の様相を見ますと、東:和気、北:出雲、津山、倉吉、西:廣島(佐伯)、南:四国+海軍戦力となります。いずれにしても宗像-出雲を使わなくては、逃げ道を防げず温羅は退治できないのです。日本史上初の包囲殲滅戦がここで行われたと想像されます。軍事顧問としての武内宿禰は中国系の匂いがしますね。応神朝が騎馬民族といわれるのにはこの戦術面の変化もあるのかもしれません。また、この勝利の鮮やかさと戦果によって、この後に控える神功大王の対大和戦の勝利が現実化したと思われます。増して、神功皇后がここで妥協してしまえば、次帝の父の仇たる熊襲は再び敵対し、大将が戦死したヤマトは只の地方政権に戻るのです。古代日本の分かれ道、ですね。(まだ続きます)
  60. Posted by U2 2011年02月10日 13:07
ここでは菟は熊襲への使者担当ですが、神功皇后の親衛隊と記載されていました。ですが、当初仲哀天皇の親衛隊であったと考えられます。いわば戦死の戦犯です。このことが>「宇治天皇が難波系の強烈な敵意や恨みを一身に受ける事になった」きっかけかもしれない、と考えています。神功皇后の凄いのは、そういったミスした人間、敵対した人間を受け入れ、忠実な部下や同盟者としてしまう能力にある、と思います。(但し、仁徳時にそれらの勢力の殆どは報復にあっている様に見受けられます・・・)。この騒乱を通じて、多勢力による日本政府軍を初めて立ち上げ、殲滅を行う。これは春秋戦国時の「晋」の諸侯と大臣、大夫達との関係にとてもよく似ていると思います。春秋時代、晋では皇帝権力は絶対ではありませんが、合議を持って国の方針を決め、前時代の大臣は度々、族滅されていきました。多数決による淘汰を経た権力強化がこの時代を持って始まったといえるかもと思いました。もっとも晋の場合は皇帝の権力集中に失敗し、韓、趙、魏の部下が独立する事によって、事実上崩壊してしまいますが・・・、応神以降の王朝の入れ替わりや動乱はその流れに良く似ているように思うのです。
(ごめんなさい続きます)
  61. Posted by U2 2011年02月10日 13:08
資源戦争の面からは、もう一つ宇陀(菟田)の水銀に触れます。
宇陀川は淀川水系で木津川の支流です。要は菟の鉱山で、道教の丹の材料で、古墳の朱の原料です。宇に関わる寄港地の金の出所は水銀で、古墳マーケティング(土木請負、朱色の販売)で儲けながら、技術者の仕事を切らさず囲い込む事ができます。同時に人材派遣を装って情報収集を行っていた可能性が出て来ました。古墳時代の終焉とは、ヤマトの統一によって、古墳ビジネスでの情報、資金収集というビジネスモデルが不要になったという事なのかもしれません。「宇」は宗教ビジネスに鞍替えして生き延びる事に成功しますが・・・無駄に見えるくらい巨大な古墳は、実は戦略的意図を持っていたと仮定しましょう。いずれにしても神功皇后は古墳用いた情報戦に勝利した情報の勝者です。
情報操作やマーケティングを考えると朝廷内部の余計な情報を得て、対熊襲戦の内幕をばらす可能性のある忍熊王兄弟は対立するしないに関わらず、抹殺対象になったのではないのかな、と感じました。
(もうちょっと続きます)
  62. Posted by U2 2011年02月10日 13:09
最後に、神功以前の三韓出兵有無に関わらず、「神功皇后の三韓征伐はデマ」と感じました。しかし羅を新羅や、加羅に読替えて三韓征伐をでっち上げてしまいました。。(主目的:熊襲征伐で大君戦死、熊襲と同盟、羅を討ち果たす・・・では威信の低下に直結します)。隼人にも「羅の裏にいる三韓によって苦しんだ」説明をしたかもしれません。
 その後、外交戦略で宋からの安東将軍と、三韓への支配権を任じられ、名目は達成され嘘は完結します。しかし嘘ならぬ「デマから出た誠」となってしまい、半島における劣勢国家からの支援の要請が相次ぐようになります。(名目上支配権があるので出兵せざるを得ない)そうして余計な朝鮮対策費が後世において発生し、劣勢国家(任那、百済)の滅亡まで延々と苦しめられ、滅亡後は鬼の城を築く程滅亡の危機に立たされたのではないかと思われます。
以前、外交戦略を手放しにほめましたが、予想以上の成果を得て身の程を超えた為、もしかすると長期的には苦しんだのではという想像を致しました。
頂いたコメントを受けて読み直して感じたことをまとめたら、こんな長文になってしまいました。恐縮というよりもごめんなさい、ですが、申し訳ありません・・・。嫌がらせでは断じてありませんが、申し訳ないとしか言いようが無いです。
  63. Posted by 楠乃小玉 2011年02月10日 13:33
U2さん
いや、素晴らしいと思います。
私が細切れに書いた断片的な
情報を非常にうまくまとめられたと思います。
大筋で、その歴史の流れの通りだと
思います。
そして、蘇我、物部の対立や、
朝鮮半島に対する長年の支援体制は
白村江の戦いをもって完結を迎え、
物部氏の末裔である藤原氏が
天皇家を支える体制が整ったと
思います。

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