法主王

2006年09月19日
法主王
法主王という方についてご指摘があったので、
考えてみたのですが・・・・・。
間違っているかもしれませんが、景教という宗派の
お坊さんみたいな感じなんですが、
仏教の一種でしょうか。
かなり人望のあった方のようです。
あと、蘇我の子孫や身内は一時没落し、
悲哀を味わいますが、そのときの心の支えとして、
仏教信者が非常に増えたようで、熱心に
仏教を信仰する方が多くなったのは、主に
天武天皇の時代のようです。
当時の事を色々な方にうかがおうと考えをめぐらせたもので、
物部の方たちが情報と引き換えの対価として、
色々記述するように言っておられるように感じます。
ただ、一方側の言い分ですから、事実かどうか知りませんよ。
天武天皇が政権をとるとき、蘇我の残党が大いに与力したので、
天武天皇はその人たちを優遇したそうです。
そして、旧政権に協力した藤原氏の直系は、中臣と名前を
変えられ、神社神道に封じ込められたそうです。
その関係で、藤原氏の先祖が悪者にされ、蘇我氏の人たちが
英雄君子のように歴史に書かれることになったそうですが、
その後も藤原氏は栄えてますよね?
まあ、主張通り書く約束なので、そのままかき続けます。
「武内宿禰に何の功があろうか、全ては難波根子武振熊の手柄ではないか」
と言っておられるようですが、事実かどうか知りません。
「熊襲に帰れ!」と言っておられるようですが、事実かどうか知りません。
歴史上の人物に対して、大変失礼なことを記述してしまって、
まことに申し訳ありません。
今回は色々な方々に聞きまわったので大変でした。
ご迷惑をかけた方々に心よりお詫びもうしあげます。


当時のコメント欄

  3. Posted by ぺる 2006年09月19日 10:15
私のコメントについてまた調べて下さったようで、恐縮です。
景教と聞いて納得しました。
秦河勝が建てたといわれる神社に、景教に関係すると
考えられる三柱鳥居がありますので・・・。
私が秦氏に思いを馳せるようになったのも、実はこの鳥居を
目の当たりにしてしまってからなのです。
本当にありがとうございました☆
  4. Posted by アレックス 2006年09月19日 16:36
はじめまして。ブログの解説以来、興味深く拝見させて戴いています。
聖徳太子・秦河勝に興味が尽きません。聖徳太子の最古の記録は書紀と並び
『上宮聖徳法王帝説』ですが、上宮、法主王というキーワードとも関係ありそうですね。
秦氏については私は京都在住ですから太子同様興味深いです。
松尾大社は秦氏の氏神で蚕の社は秦氏と繋がりの深い神社ですし、蚕の社のある太秦には太子をお祀りする広隆寺があります。
  5. Posted by アレックス 2006年09月19日 16:44
書き切れませんでしたので続きです。
また播磨の宇留山の記述を拝見してふと思ったのですが、
播磨も聖徳太子と深い繋がりがあるところで、
太子町という町があります(合併して町名が変わっているかも知れません)。
あまり詳しくはないのですが聖徳太子と秦氏の関係が大変面白いと思いました。
お体ご自愛下さいね。これからも楽しく拝見させて戴きます。
  6. Posted by エイブラハムス 2006年09月19日 18:30
2ちゃんねるオーラスレの織田信長については度肝を抜かされました。
一段落したら、オーラにも名前がでてきた役小角を御願いできるでしょうか?
番組のなかで美輪さんは少年の姿を現してくれたと言ってましたね。
役行者に影響をうけたという安倍晴明、空海、つながって最澄などはどうでしょう。(いつか気が向いたらでいいですよ。どうか無理はなさらないように)
みんな呪術が使えるから手ごわいかも。
このブログ、量がたまったらBlog内検索もあるし、とても充実したものになる気がします。
期待しています。がんばってください。

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この記事へのコメント

ぐり~ん
2014年11月07日 00:36
>そして、旧政権に協力した藤原氏の直系は、中臣と名前を
>変えられ、神社神道に封じ込められたそうです

ああ、このことの意味がやっと分かりました。
つまり、天武政権が誕生する以前には、いまの(のちの)中臣氏も含めた全中臣・藤原氏一門が藤原姓であったのですね。
そしてこの頃の中臣氏は祭祀だけではなく、政治分野においても広く活躍していたと。
それが中臣・藤原氏は弘文天皇方に付いてしまったために、戦後、鎌足直系を除いては藤原姓を剥奪されて中臣姓とされ、さらに政治分野から追い出されて神道の祭祀氏族に特化させられてしまった、とそういうことなんですね。
幻水教晴
2014年11月07日 22:10
これはややこしい話ですが、中臣鎌足が藤原姓を賜って後は
その子孫は藤原なわけです。
それを、建前上は祭事に専念するという理由で
旧来の中臣を名乗らせるわけですが、これは一旦賜った藤原称の
剥奪でもあるわけです。
ぐり~ん
2014年11月08日 09:30
そうでしたか。
確かに不比等が成長するまで、不比等の叔父か誰かが藤原姓を賜って中臣・藤原一門の代表を務めていたということがあったと思います。
そして不比等が長じてからは、元の中臣姓に復したと。
でもそうすると史実とあまり変わらないですよね。
また、
>藤原氏の先祖が悪者にされ、蘇我氏の人たちが英雄君子のように歴史に書かれることとなった

というのも、鎌足は別に悪く書かれているとは思いませんし、どっちかというと蘇我氏の方が悪役的に書かれているような気がするので???なのですが、
もしかして、「藤原氏の先祖」とは守屋大連など物部一門のことを指すのであり、
「蘇我氏の人たち」とは蘇我氏の先祖の武内宿禰および、その子孫とされる許勢、平群、葛城の諸氏らを指すのであれば、物部の方々の仰られることにはごく納得が参ります。


PS.古代編のことに関しては、こちらのブログの方にコメント差し上げた方が良かったでしょうに、今までその発想をてんで持ち合わせておりませんでした(^_^;)
そういうわけですのでこれからもどうぞよろしくお願い申し上げますm(_ _)m
幻水教晴
2014年11月09日 08:36
ぐり~んさん
古代編に関して、本編ブログのほうにコメントして
いただいてもかまいませんよ(笑)
あちらのほうでも古代編のエントリーを書かないといけないですねえ。
蘇我氏の英雄視というのは、聖徳太子の件も含まれています。
上宮聖徳法王帝説などの記述ですね。
藤原氏に関する記述については、
蘇我氏が繁栄した時期には蘇我氏の栄光が喧伝され、
その後、藤原氏が繁栄したことで、
文献の内容が修正された部分が大きいと思います。
ぐり~ん
2014年11月10日 05:41
ああそういうことだったのですね。
それでしたら、『上宮聖徳法王帝説』とともに、
『記紀』の前に存在し、蘇我氏が所有していたという『帝紀』、『旧辞』、『国記』などの、『記紀』の元資料になったであろう書物の類もそういうことだったのかもしれないですね。
ところで、
某巨大掲示板で、古代ユダヤ王国(イスラエル王国&ユダ王国)の興亡の歴史や、その後のユダヤ人の離散(ディアスポラ)、そして離散したユダヤ人と古代ペルシャとの繋がり等について考察していたら、2~3日前からなんだか秦氏の方々がいらっしゃって下さっているような妄想がしてきています(*^-^*)
幻水教晴
2014年11月10日 06:28
秦氏は、おそらくキリスト教ネストリウス派ではないかと
考えています。秦氏が大きく建設に寄与した
伊勢神宮は光の神天照大神ですからね。

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